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やまー
by terayamadai
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No2 女の一生


要約
 修道院で教育を受けた清純な貴族の娘ジャンヌは、幸福と希望に胸を躍らせて結婚生活に入る。しかし彼女の一生は、夫の獣性に踏みにじられ、裏切られ、さらに最愛の息子にまで裏切られる悲惨な苦闘の道のりであった。

感想
 本書の正式なタイトルは「女の一生 ささやかな真実」である。「ささやかな真実」という言葉に本書の内容がよく要約されていると思う。というのは、幸せになりたいという純粋な気持ちを打ち砕く現実の厳しい生活の中でジャンヌがふっと感じるささやかなやすらぎ、期待が裏切られ続けて虚無感に陥った心境というものが上手く伝わってくるからである。人生について、幸せについて考えさせられる一冊である。
 ところで、私は偶然というものは存在しないと考えている。物事には必ず因果関係があり、ある結果にはそれを引き寄るだけの因が存在している。今回この本を読み、幸せになるためにジャンヌはこうした方がいいのではないかとおせっかいながらコンサルティングしてみた。
① 夫は白馬の王子様だと思わないこと。
② 子供に全ての愛情を注がないこと。(夫にも愛情を分ける)
③ 信頼のおけるメンターを持つこと。
 異論があるかもしれないが、この3点を心掛けるだけでもジャンヌの人生は大分変わったであろう。
# by terayamadai | 2005-05-19 09:12 | 本:その他

No7 マルクスが描き出した冷酷な体制


 カール・マルクスの資本主義崩壊のビジョンはどのようなものであったのだろうか。彼の代表的な作品「資本論」では、最善な資本主義システムを採用し、そのシステムが内包する制度的矛盾を指摘することでシステム自体が抱える制度的欠陥を証明しようとした。最善な資本主義システムでは独占や組合といったいかなる者に対する特権も存在していない。そこでは全ての商品が適正な価格で売られている。適正価格とは商品の価値のことであるが、商品の価値とは、商品がそれ自身の内に秘めている労働量のことである。こうした状態の下で利潤が発生する原因をマルクスは「剰余価値の発生」という概念で説明している。労働者は生存のために仕事をし、契約した賃金を得ている。けれども、労働者は実際仕事を契約する上で生存に必要な時間以上の契約を余儀なくされる。労働者は契約した労働を行うことで生み出した価値を資本家に委ねるが、労働の対価として彼らの生存維持金額しかもらえない。マルクスはこの不払い労働分を「剰余価値」と呼んだ。利潤が発生する源と考えたのだった。
 今まで労働者サイドから考えてきたが、今度は資本家サイドから考えていく。資本家は競争を通じて生産規模の拡大を図るが、労働者の賃金が上昇するため利潤率は低下していく傾向にある。そこで資本家は労働節約的な機会を導入し、賃金を抑制しようとする。一見すると資本家は危機を逃れてように思えるが、実際は自身の利潤の源泉を破壊してしまっている。そして、利潤は生産がこれ以上利潤を生むことが無くなる地点まで、切り下げられ、破産する資本家が続出する。
 上記のようなマルクスのビジョンは労働者を酷使していた時代には適応したかもしれないが、現代社会には適応できていないように感じられた。
# by terayamadai | 2005-05-19 09:11 | エッセイ(課題)

No6 創造の方法学


 この本の中で著者は知的創造とは何かという方法論を述べている。まずは問題をどう考えるか、物事の因果関係を把握し原因と結果の関係を整理することから始まる。そして、原因と結果を結ぶ理論の部分を具体的証拠を集めることで埋めていくという作業を行う。アメリカの著名なジャーナリストであるウォルター・リップマンによれば、われわれの生活は次のような三角関係によって成り立っているという。「われわれの頭の中にある映像」、「その映像に向かって働きかける行為」、それに「現実の世界」、この3つである。私たちが研究をする際には、まず特定の現象を選び出しその現象を引き起こす原因を求めて因果関係を設定しなくてはならない。そして、仮説を立てた研究者は次にその仮説を経験的事実に合わせてテストしなくてはならない。検証と呼ばれるこの過程はいわば「われわれの頭の中にある像」を、「現実の世界」と照らし合わせて、その間に相違がないかを調べる過程に似ている。しかしながら、科学における検証とはより抽象的な、より一般的な、より適用範囲の広い、従って問題解決により役立つ映像であり、それを理解するためには「概念」というものを考えなければならない。
 我々が普通「事実」と呼ぶものは、実は「概念」によって経験的世界から切り取られた、現実の一部に他ならない。そして「概念」と「経験的世界」との間には相互作用が存在する。このプロセスの中で概念の修正や新しい概念の創出が行われ、これらは人間の知的創造にとって極めて重要である。このように考えていくと、数量的統計方法を用いて世界を記述することは、世界を説明することの前提条件であるが、それだけでは知的創造という視点からは価値が低いと評価されるのも当然であり、我々は日々「概念」を修正し、新しい因果関係を推測していくことで知的創造を行っていく必要がある。
# by terayamadai | 2005-05-19 09:10 | エッセイ(課題)

No5 加藤紘一氏の講演 行政改革を巡る官僚と政治家の関係


 行政改革を巡る話の中で加藤紘一氏は、地域コミュニティーの人々の結びつきが弱くなってきていることに触れていた。彼は、この現象はなにも最近の出来事ではなく、明治時代以降の日本で少しずつではあるが着実に進行していった極めて長期的な現象であると指摘していた。江戸時代までの日本社会では村単位でコミュティーが強固に存在し、村の長が利害関係を調整していたので中央から行政サービスを受けなくても村人たちが力を出し合って問題を解決していた。が、明治維新を経て富国強兵、廃藩置県など中央集権的な政策を国が推進していくようになると、中央から来る役人が地域コミュニティーの問題解決に介入してくるようになり、彼らを介さなくては“政治”を行なえなくなってしまい、そのために地域コミュニティーの絆が弱くなってしまった。
 印象的だったのは、加藤氏が自分の幼少の頃の体験談を交えながらこの問題について語ってくれたことである。彼は山形県の小さな町に生まれ、育った。町では雨の降るシーズンが近づいてくると住民は総出で川の底に生えている雑草を抜き、作業を終えると参加者たちは酒を買って皆で賑わっていたそうである。そうした機会に住民はお互いの情報を交換し、地域の絆を維持していたのである。このように、加藤氏が幼少の頃にはまだ、地方には地域コミュニティーが存在していた。だが、現代ではその限りではない。地域社会の住民で解決できることにまで役所が介入してくるため、役所というところは非常に効率の悪いものになってしまったという加藤氏の主張はもっともだと思う。役所の介入・規制は必要なことではあるが、明らかに人々の効用を低下させるものに関しては取り除く必要があると感じた。
# by terayamadai | 2005-05-19 09:09 | エッセイ(課題)

No4 ソースタイン・ウェブレン


 ソースタイン・ウェブレンのはある意味で真理を看破していると思う。代表作「有閑階級の理論」の中でウェブレンは「有閑階級は見返りに何ら生産的サービスを行うことなく物を所有し、それは社会の充分な承認のもとに行われた。これらの社会は、侵略好きで略奪してくるものを褒め称えた。その結果、仕事に対する態度に変化が生じ、暴力による富の獲得は名誉のあることとみなされるようになった。対照的に、単なる労働は軽蔑をもって見られるようになった。」と述べている。社会の価値観が変化していく中で、ウェブレンは社会を構成する人々(ここでは近代人と呼ぶ)は未だに昔ながらの野蛮な性格を持っていると考えた。彼一流の表現によると「近代人は野蛮な先祖の投影だ。」そうである。今回はこの台詞の意味について考える。
 私は長い時間軸で歴史を眺めると、人間(のみならず生き物全て)は同じ事を繰り返している様に見えてしまう。時代により表面的に見える現象は異なるかもしれないが、本質的には同じ事を考え、同じ行いをしていると考えている。であるから、近代人も過去の先祖の特徴を引き継いでいても何ら不思議ではない。ここで更に深く考えるためにダーウィンの「種の起源」から興味深い一節を引用しよう。「この世で生き残っていく生物は最も強いものではない。最も環境に適応できた種族のみが生き延びる事ができる。」
 人間が地球に誕生してから現在までの期間を長いと見るか短いと見るかは別にして、人間が今まで生き延びることができたのも環境に適応できたからであると私は考えている。環境に適応するために人間は自覚の有無に関わらず自らを絶えず変革していかなくてはならない。それには2通りの方法があり、一つ目は学習効果を通じて環境に適応することであり、二つ目は遺伝そのものが環境に適したものに変わることである。ここで、「現在急激な環境変化が起きている」と、「人の一生は遺伝により規定されている」と仮定すると前者は種の保存の観点から考えると知識の伝承という形でしか人間の進化に貢献できなく、社会的弱者になる可能性がある。それに対して後者は新時代の優勢人種であるから社会的強者になる可能性が高い。だが、後者は絶対数でいうと少数であるため社会のリーダー数が足らなくなってしまう。そこで前者に活躍できる機会が生じる。歴史を俯瞰するにあたって、前者に該当する絶対多数の人々を「教育を通じて知識の獲得・学習→環境に適応できる(生き残れる)→知識・経験の伝承(種の保存のため)」というサイクルで眺めると、ウェブレンの言った台詞は妥当性があるように思われる。
# by terayamadai | 2005-05-19 09:08 | エッセイ(課題)